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奈良県橿原市八木にある小5〜中3対象の高校受験専門進学塾。奈良・畝傍・郡山高校進学を目標に徹底指導を行います。

SHINGAKUJUKU SORA
進学塾SORA
奈良・畝傍・郡山高校を目指す塾
生徒全員を伸ばす塾
小5〜中3対象
塾長 上江洲康司
奈良県橿原市葛本町
834−2
TEL 0744-23-1586
受付時間
月〜土(祝日を除く)
14:00〜20:00




塾長「書く語り記」

教育に関する塾長kamiesuの考えをまとめてみました。多くは塾長が執筆しているブログからの転載、及びそれらを加筆、訂正したものです。教育以外の内容もあるかもしれません。ご了承ください(笑)少しずつ更新していきます。


CONTENTS
001 頭をよくする方法(1)
002 頭をよくする方法(2)
003 頭をよくする方法(3)
004 頭をよくする方法(4)
005 奈良高校と畝傍高校どっちがいい?
006 「型」
007 ナカちゃんのこと 

008 人は苦しみの中からしか学べない 
009 書くことを厭わぬ子に 

010 部活動の選び方
011 「技術」がなければ「愛情」も存在しなくなってしまう
012 結局それは「心」が決めているのだ。




001 頭をよくする方法(1)

子どもを教え、学力を伸ばすことを仕事にしている私は、常に子どもの能力を伸ばす方法について考えてきた。塾講師は結果を出さなければならない。奇麗事の教育論を語るのは心地よいだろうが巷には全く役に立たない教育論が存在する。

私は、教育に関しては最新の教育論の類よりも、長い歴史の中を生き残ってきたものの方を信頼している。

長い歴史を生き残ってきたといえば、例えば「読み・書き・算」がそうだ。日本の教育の基本は、この「読み・書き・算」の徹底にあった。古くは寺子屋や塾(学習塾ではない)でなされてきた教育がそうであった。「読み・書き・算」を仕込まれた当時の日本人の教育力は非常に高かった。

「個性の教育」などといって、放任の教育や、一問の問題を時間をかけて考える授業スタイルがもてはやされたとき、そんなのしゃらくさいと思っていた。「読み・書き・算」の底力の方がはるかに高いと思っていた。

アフリカなどの国から日本の教育を視察にきた一団が、日本の私教育を見学したいといって、私が以前に勤めていた塾にやってきたことがある。

そのとき、一団の案内と、説明を担当した私は、日本の教育の基本は「読み・書き・算」の徹底だと一席ぶった。通訳もついていたのだが、少し頼りなく、途中自分で英語を用いながら説明をした。彼らは熱心に聞いていた。彼らはたいへんよく勉強していて、そういったことをすでに分かっている人もいたのにはとても驚いた。

日本人を優秀にするシステムは他に何かないのか?日本人を優秀にした秘密を教えてくれと言われた。

私は答えた。

日本人には、子どもをとても大切にする社会風土がありました。世界中、どの国も子どもを大切にするのは当たり前ですが、日本は格別だと思います。とにかく繭の中にくるむように子どもを大切にするのです。

例えば、子どもの玩具ひとつをとっても、世界中に例がないくらい多数のものが存在します。「トランプ」のような大人の遊び道具で子どもが遊ぶのではありません。子どものために生み出された玩具が多数にあるのです。

駒、やじろべえ、竹とんぼ、すごろく、福笑い、だるま落とし、剣玉、かるたなど大人が子どものためにサービス精神旺盛にモノを創造しています。

これは日本の文化だけの特徴といえるでしょう。しかも、それらの玩具がそのまま子どもの知育を促進するグッズになっているのです。皆さんもお土産屋さんに行けば、どれだけこのようなグッズが充実しているかということに驚かれるでしょう。

『かるた』は字を教えています。すごろくは「1対1対応」を子どもに教える基礎になっています。『竹とんぼ』や『コマ』や『剣玉』がどれだけ日本人の手先を器用にしたことでしょうか。

とにかく、子どもを楽しませようという思いが日本人のDNAに刻まれているようです。ですから、いくらマイクロソフトがゲーム機を開発しても、SONYのプレイステーションを打ち破るのは難しいでしょう。子どもを楽しませようとする年季が違うのです。


「1対1対応」がどうのという部分は随分英語で説明するのは骨が折れた(通訳も苦労していた)が、彼らは満足してくれたようだ。随分と拍手をもらった。

学校へ行っても何の収穫もなかったが、ここではたくさん学べた、と話しているのが聞こえてきた。一緒に写真を撮ってくれとも何人からも頼まれた。

で、頭をよくする方法とは何か。それはやはり日本人が古くから大切にしてきたシステムの中にある。それはエリートを生み出すシステムであった。(つづく)




002 頭をよくする方法(2)

頭をよくする「メソッド」を持っていたのは「禅」の修行のシステムだ。

ご存じの通り、禅の教えは難解だ。現代人でも理解し難いのに、現代のように教育システムの整っていない時代に「禅の教え」を仕込もうとすれば、大変であったことは容易に想像できる。何せ文字も読めない小僧に「禅」の悟りを開かせようというのだ。

「座禅」は、心のコントロールをさせる訓練である。意識が散漫になったり、別のことを考えてしまったりすることを許さない。もし心が散漫になっていたら、ぶたれてしまう。徹底的に心のコントロールをさせる。この修行で得られるのは間違いなく「集中力」である。

規則正しい生活というのは頭をよくする第一歩だ。禅寺では完璧に規則正しい生活を送る。

規則と言えば、禅の修行ではルールが嫌というほど存在する。「食べるときに音を立ててはいけない」「歩くときに音を立ててはいけない」「歩くときは頭を揺らしてはならない」「壁から○寸離れたところを歩かなければならない」「寝ているときも動いてはならない」等々の信じられないほどの細かい決まりがある。

これは何のためか。これは注意力を育てる訓練に他ならない。一つのことに集中しながら、また別のことにも注意を置く。そんな訓練だ。意識を「集中」させながら「拡散」もさせているのだろう。

禅の高僧は「隙あらば打ってみよ」と言って、決して打たせなかったという逸話が残っているが、この訓練の賜物であろう。

これらの訓練を実施するには、訓練する者を「隔離」し、外界との接触を遮断しなければならない。元々が普通ではない訓練をやっているのである。世間の常識の流れるところでは修行の効果は出にくくなる。修行に対する「信」が途切れるのだ。

これは塾の先生ならばお分かりいただけるだろう。夏休みの間、生徒を徹底的に鍛えて凛々しい顔になった連中が、学校が始まったとたんに元の顔に戻ってしまうということは絶対に経験されているはずだからだ。

また、禅には「公案」というものがある。師から一つの難解な課題を与えられて、その課題の答えを四六時中考えるというものである。「思考」を途切れさせず、頭を使い続けるよう持っていくのである。この間、先に述べたルール等は守りながらこれをさせるのである。

一休さんで有名な「そもさん!」「せっぱ!」もある。(あれをなんというか知らない)これは問われたことに「即答」をしなければいけない。瞬間に答えられなければアウトである。瞬間に思考を巡らせる訓練である。

このような修行をしているからこそ、禅には天才が生まれるのである。当たり前だ。ため息が出そうなくらいのシステムである。

おっと、このシステムで一番肝心なものを述べるのを忘れていた。それは「帰依」である。仏に帰依し、信心をおいているからこそ、これらの修行を全うできるのである。

この修行システムをこの現代においてほぼ忠実に実践している教育機関がある。信じられないかもしれないが存在するのである。その教育機関は完璧な成果を上げているといってよい。

その教育機関とは「宝塚音楽学校」だ。あそこは廊下の歩き方、曲がり方、お辞儀の仕方にまで厳密のルールがある。外界との遮断という面でも完璧だ。ほぼ完璧に禅の修行を踏襲している。台本を渡されてからオーディションまでは「公案」であろうし、即興のパントマイムなどは日常茶飯事であろう。

彼女らには「帰依」の対象も存在する。彼女らの帰依の対象は「宝塚の舞台」、そして「トップスターになること」だ。強烈な帰依である。信仰の対象だからこそ、あの修行が続くのだ。

一度、宝塚の「手塚治虫記念館」を訪れたときに、宝塚音楽学校の生徒を目にしたことがある。背筋をピンと伸ばして歩く彼女らからはたしかにオーラが出ていた。

さて、このシステムを応用すれば、間違いなく生徒の頭をよくすることができるはずである。



003 頭をよくする方法(3)

さて、禅の修行システムを塾の教育に導入しようとすると、いくつもの障害がある。(当たり前だ。障害がなければ皆やっていると思う。)

まず、外部との接触を遮断することはかなり難しい。しかしながら、近づける方法ならある。春休み、夏休み、冬休みなどの休みの期間に集中的に塾へ来させ、徹底的にしごくのはかなり有効だ。

しごくだけでなく、話をしたり、データを見せたりして、勉強をすることがいかに大切か、君たちの人生を有意義にするか、ということを熱く語り続けることも必要だ。これをやると顔つきが段々変わっていく。

合宿というのもいい。寝食を共にすると、効果は高い。短い期間ではあるが、外部との接触を断つことができる。また、合宿は規則正しい生活を送らせることができるので、その意味でも有効だ。

出来る範囲からやれることをやるのが大切だと思う。

また、ルールを徹底することも大切だ。これはできる。(ただし、四六時中の徹底はできない。あくまで塾に来ているときだけだ)

「背筋を伸ばしなさい(腰骨を立てなさい)」
「肘をついて授業を受けてはいけない」
「話をしている人の顔をきちんとみなさい」
「トイレを汚してはいけない」
「席を立つときは椅子を入れなさい」
「消しゴムのカスは下に落とさないようにしなさい」
「『えっ』と言ってはいけません」
「口を開けて授業を聞いてはいけません」

などなど、かなり窮屈だが、確実に動きがしゃんとして、優秀になる。姿勢が悪いのは頭の回転を悪くする。そして長時間の学習には耐えられない。絶対に矯正させた方がいい。

最後の「口を開けて授業を聞いてはいけません」の重要性をご存知であろうか。とても大切なのである。「えっ」の禁止も大切だ。

ぼーっとさせずに絶えず何かに注意を払う姿勢は絶対に頭をよくする。うっかりミスの多い生徒は物をよく机から落とすし、歩いていて体を引っかけ、机をずらしてしまっても直そうとしない。気がついていないのである。もちろん忘れ物も多い。

これは勉強の面だけで直そうとしても直るものではない。生活の中から徹底する必要がある。これは塾の中だけではダメだ。学校でも家庭でも徹底しなければならない。

ただし勉強へのモチベーションが低い子、つまり勉強に「帰依」していない子にはこれらのことは苦痛でしかない。このあたりが難しいところではある。




004 頭をよくする方法(4)

今は音読ブームである。10年前に塾で音読をやらせていたら、時間の無駄みたいに一人の保護者に言われたことがあったが、今は違う。英語を音読させていると、よい教育をしているという評価を得そうだ。斉藤孝氏や蔭山先生の影響だろう。完全に市民権を得たように思う。

最新の脳科学でも「音読」は、「単純計算」と同じく、脳をフル回転させるという。難しい問題に葛藤するより、ずっと音読の方が頭を動かしているのだそうだ。

このことに関しては私は昔からそうではないかと思っていた。音読はやってみると分かるが意外に難しい。一度この文章を声に出して読んでみてほしい。実は引っかからずに読むことはとても難しいのだ。瞬時の様々な判断を必要とする。

暗唱した文を繰り返し言うのもとてもよいそうだ。まず「暗唱」がとても脳によい刺激を与える。それを繰り返し言うことも刺激を与える。

読経なんてまさに「暗唱」と「音読」だ。禅の修行ではこれを毎日何時間もやるのだ。それは頭がよくなるだろう。

禅もすごいが密教もすごい。『虚空蔵菩薩求聞持聡明法』というのを皆さんはご存知であろうか。

この法、まさに「人を天才にする法」として伝えられているのである。さすがは密教である。深遠な法を修業するための前段階に、まず人の頭をよくしておく法が用意されているのだ。いたれりつくせりである。

弘法大師空海は修行時代にこの法を修して天才になったという。空海の小説や伝記を読んでいれば必ず出てくる法だ。私は日本の歴史の中で誰が一番天才でしたかと聞かれたら真っ先に空海を挙げるだろう。空海はそれくらい多才な人物であった。

『虚空蔵菩薩求聞持聡明法』、それはどんな法か。簡単に言うと(詳しくは言えない。口伝とかがありそうだ。)虚空蔵菩薩を本尊にし、明星を見つめながら、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えるのだそうだ。

この虚空蔵菩薩の真言というのがかなりややこしい。スラスラ言えるまで時間がかかりそうだ。

「のうぼうあきゃしゃきゃらばやおんありきゃまりぼりそわか」

これを100万回である。声を出し、集中し、脳を使い、呼吸をし、体内に血を巡らせる。これはよさそうだ。

私の父方の祖母の姉は病気で入院して呆けた。どうしようと家族は愕然としたが、退院して、日課の題目を仏壇の前で、毎日大きな声で上げていたら、呆けが直ってしまった。

皆信心のおかげと感動していたが、これは音読と発声の効果に他ならない。痴呆の治療に誰かもっと役立ててほしいくらいだ。

かなりマニアックな話になったが、ご安心いただきたい。私が授業で生徒に真言を唱えさせることはない。「オカルト塾」なんて言われたらたまったものではない。


ただ、これくらい子どもの頭をよくする方法について日夜考えていていることはご理解いただきたい。




005 奈良高校と畝傍高校、どっちがいい?

一度書きましたが、ちょっと書き直しています。できるだけ早く書き上げますのでお待ちください。すみません。










006 「型」

小5の英語の授業で、ローマ字のテストをやってみた。テスト自体は何ということはない。五十音表に対応したローマ字を書くだけなのであるが、テスト用紙を配布するのではなく、ノートに表を作らせたのである。

私が白板にこういう風に書くんだよ、と書きながら指示を出したのであるが、5年生はさすがに作業能力が低い。段を間違えたり、分からなくなって固まっていたりする。

「ここ間違えているよ」「分からなかったら聞くんだよ」と言って回る。新しい「単元」を教えるだけではなく、こういう作業能力を高めるためのアプローチがなければ子どもを伸ばすのは難しい。回りくどいようであるが、こういうことをしっかりやっていきたい。

作業能力の高さは、学力向上に不可欠だ。例えば、生徒達に「お知らせ」を配るとする。作業能力の高い子は瞬時に角を揃えて二つに折ることができる。こういうところに無頓着な子は、総じて学力も低い場合が多い。(天才肌の子は興味のないことに驚くほど無頓着だったりすることもある。Tシャツを裏返しに着ていて気づかないなんてこともある)

今、「無頓着」と書いたが、勉強ができない子は、多くのことに「無頓着」だ。下敷きがなくてもこだわらない。赤ペンがなければ蛍光ペンで書けばいい、定規がなければフリーハンドでOK、線が曲がっていてもべつに平気。そんな子に学力をつけていくのは本当に大変だ。

ではどうすれば、頓着することができる子を育てることができるようになるのか。私は「型」を身につけさせることしかないと思う。だから「型」が身につくまでは口やかましい先生でいなければならない。今進学塾SORAは「型」を身につけさせる「初期設定」の大切な期間なので、「くんずほぐれつ」の指導である。

かつて日本の「習い事」というのは「型」を大切にした。それはときに窮屈で、うっとおしいものであり、団塊の世代以降の人間はこれを疎んじた。「自由」と「解放」を叫んだ思想はこういうところにも及んだのである。そうして「かくあるべき」という基本の「型」が文化の中から消えていった。そしてだらしない人間がうんと増えた。もう日本人の特性を「勤勉さ」と言ってくれる外国人も相当に減っただろう。

ところで、反抗期を迎えた子どものためにも「型」や「ルール」は大切である。小さいころから「型」や「ルール」にうるさかった家庭では子どもは反抗しやすい。「ルール」を守らない姿勢を見せるだけで彼らの「反抗心」は満足する。朝の「おはよう」を言わなかっただけで「反抗」できるのだから。

一方、「何をやっても認められる、子どもの心を大切にした」教育方針の家庭では、子どもは「反抗」するのが難しい。なんといっても何をやってもよいのである。だから、彼らの「反抗心」満たすには、家を破壊するか、親を殴るか、犯罪を犯すしかないだろう。

(2006.7.9)




007 ナカちゃんのこと


私は子どものころ、友だちのお母さんから受けがよかったと思う。

小学校の同級生のあるお母さんは「遊ぶんやったらkamiesuくんと遊び!」と言ってたらしい。そういうお母さんが結構いた。

私はそんなに良い子だったのかというとそういうわけではない。ただ、よそのお宅へ上がるときには履物を揃えて上がり、その家のご家族に「こんにちわー」ときちんと挨拶をするようなことだけはきちんとしていたのである。

一方、「ナカちゃん」という友だちがいた。友だちの間からは大人気の子だった。勉強はあまりできなかったけれど、脚が早く、肩が強く、野球もドッチボールも上手かった。

でもこのナカちゃんは、とても「親受け」が悪かったと思う。私と遊ぶよう息子に言っていたお母さんは「ナカちゃんとは遊びな!」と言っていた。

仲間内では人気者だったナカちゃんは、友だちの家に上がるときも靴を脱ぎ散らかしていた。よくナカちゃんの履物を揃えてあげていたので記憶にある。またそういう姿を友だちのお母さんは見ているため、ナカちゃんの株は下がり、私の株が上がったりする。

ナカちゃんは友だちのお母さんにもきちんと挨拶をしていなかったように思う。遊ぶことに夢中だったのだ。ナカちゃんがお母さんに受けが悪いのを知っていたので私はハラハラしていたものだ。

たったそれだけのことなのだ。挨拶をするとか履物を揃えるということができるだけで、私は大人から結構愛され、大事にしてもらい、それが上手にできないナカちゃんは大人から少し疎まれていた。

勉強は確かに大切だけれど、それより大切なものはいっぱいある。そんなことは皆分かっているけれど、じゃあ何を教えてやればよいのか分からないでいる。

第一歩は何かというとそれは「しつけ」なのだ。「しつけ」は自分の子どもが他人に愛されるように、大事にされるようにするためのものだと私は思う。

「しつけ」とは「挨拶をする」「返事をする」「履物を揃える」ということだ。それができなくて他のしつけも教育もないというくらいに大切だ。「はじめの一歩」こそ一番大切だ。挨拶のできない子に「人の気持ちを思いやる」ということを教えても身にはつかないのだ。

可愛い可愛い自分の子どもは、他人様から見たら迷惑な存在でしかないという感覚を親は持っておくべきだと思う。私は正直、電車で小学生が3人乗り込んできただけで気が滅入る。動きが粗雑でやかましいからだ。正直そういうものだと思う。

他人様から大事にされ、愛されて育つ10年と、可愛がられることのない10年、これはその子の人生を左右してしまう差だと思う。他人様から大切にしてもらえるよう、子どもにきちんとしつけをするのが親の使命ではなかろうか。ちなみにうちの息子はかなり粗雑である。親の仕事は山ほどある。トホホだ。

19のころ、私がノーヘル(その当時は合法)で原チャリ(ジョグ)に乗って信号待ちをしていると、声をかけてくるヤツがいた。ふと見るとナカちゃんだった。白いソアラに乗ってちょっと得意そうだった。助手席にはとても派手な女の子がいた。そのとき以来、ナカちゃんに会っていない。

(2006.5.17)




008 人は苦しみの中からしか学べない

「人は苦しみの中からしか学べない」

私はこの言葉をとても大切にしている。長い間、人生の中で私を支えてくれた言葉なのである。苦しいときこそ、自分が成長しているときなのだと思うと、その苦しみを乗り越えられそうな気がする。「苦しみ」が「必然」のものだと思えてくる。

この言葉を受験が近づいた生徒達に必ず言うようにしている。受験が終わると多くの生徒が、先生のあの言葉が自分の支えになりましたと言ってくれるのは、自分が大切にしている分、この言葉には「力」が宿っているだと思う。

もう7年前のことになる。M君という生徒がいた。高田高校という学校を受験した。進路指導の段階で私は太鼓判を押した。内申点もばっちり。事前の模試の成績でも塾内で高田高校を受験する生徒の中で一番だった。絶対に落ちるはずのない成績だった。

しかし、合格発表の掲示板には彼の番号はなかったのである。彼は不合格だった。連絡を発表を見に行った先生から受けて、呆然とした。何かの間違いだと思った。

彼は私立併願、いわゆる「滑り止め」に清風高校という高校を受験していた。はっきりいって併願私学の方が難易度が高い。そういうところを合格していたのである。

非情なことだが、奈良県公立高校合格発表の日の午後、清風高校は入学受付を締め切る。つまり不合格だった子は、その足で清風高校へ行って手続きを本人がしなければならない。

親に連絡をすると、M君の行方が分からないと言うのだ。探しているという。友達も彼を見失ってしまったと言っているとのこと。

私は焦りに焦った。眩暈がした。夕方の4時までに手続きをしないとMは高校に行けない。

あらゆるところに連絡して、彼の居場所を探したあげくに、私は意を決して清風高校へ連絡をした。事情を話し、ルールを曲げてでも彼の入学を認めてもらおうとしたのである。若い先生に電車の時間を調べさせた。清風高校まで行かなければならないだろうと思ったからだ。

電話で清風高校に電話をすると、なんとMは清風高校にいたという。電話に出た清風の先生が調べてくださった。今Mは説明会に出席しているという。彼は自分で、一人で誰にも言わず、電車に乗り、大阪の清風高校まで行ったのだ。

安心すると同時に、彼の気持ちを考えるととても辛かった。

皆にそれを報告して、時間が経つのを待った。こういう日も授業がある。塾稼業は辛い。

夕方授業前、職員室のドアが開いた。Mが立っていた。

「おい、M!よく清風まで行ったな。えらかったぞ。」そう声をかけると、彼は私の顔を見るなり、

「先生が、人は苦しみの中からしか学べない、と言ったその意味が、今日僕は分かりました。」

とそれだけの言葉を振り絞るように言って、ぼろぼろと涙をこぼした。

私も泣いた。愛する教え子を不合格にした不甲斐なさと、この場面でこの言葉が吐ける我が教え子の素晴らしさに泣いた。

ゆっくりと話を聞くと、掲示を見て、とにかく清風高校へ行かなきゃと思い、気がつくと電車に乗っていたという。

清風高校で先生のお話を聞いているうちに我に返ったのだという。そして清風高校の先生のお話がとても素晴らしく、やる気が再び湧いてきたのだという。

私は清風高校の先生に心の中で深く頭を下げた。第一志望の学校を不合格になった子ばかりを集めて話をし、やる気にさせるというパワーは尋常ではない。私はこのこと以来、清風高校を深く敬意を表している。

人生は上手くいくことばかりではない。合格させるのが私たちの仕事だ。でも合格させればよいというものでもない。

「言葉」は力を持つ。そんな「力」を生み出す言葉を伝えるのも私たちの仕事だ。

(2005.12.16) (2006.8.26 一部加筆)



009 書くことを厭わぬ子に

小学生を見ていると、中学生よりも個々の生徒の「書く力」に大きな差があるように思う。以前にも書いたが、英語の導入期で、発音の力の差は学力の高い子と低い子でそんなに差異は生まれないのだが、「書くこと」に関しては、学力の差が大きく出てしまう。

学力の低い子は、アルファベットの練習からすでにたどたどしい。bとdの書き間違いやスペルミス、答え合わせの不正確さなどは、圧倒的に学力の低い子に圧倒的に多い。「書く力」は学力に直結しているのである。

とすれば、学力を伸ばすためには、「書く訓練」を徹底的に施さなければならないのは明白だ。学力の低い子は「書く」のが嫌いだ。なんとか理由をつけて書かないですませられないかと考えている。だから、無理やりにでも書く量を増やし、書くのを厭わない鍛えをいれておかなければならない。指導者からの強制力は不可欠だ。

私は小1などの生徒を教えたことはないが、ひらがな、かたかな、漢字の練習あたりの訓練がその後の学力を大きく左右すると思う。このあたりから「できる子、できない子」が生まれつつあるのだろう。いくら算数にとびきりのヒラメキがあったとしても、書くのを厭う子はどこかで失速しやすい。

小5、小6というのは、そういう鍛えを入れておく最後のチャンスかもしれないと私は思っている。「書く力」の弱い子は、中学に入ったらあっという間に授業がわからなくなり、点数が取れなくなるだろう。その前に鍛えを入れておかなければならない。中学からでは遅いである。

昨日の小5の英語の授業、私はスペルのテストを行ったのであるが、一人の子だけ満点で、後の子は練習が全然足りなかった。ノートにびっしり綴りを練習することがなかなか発想できないのである。1行か2行書いて「覚えられません」なんて言ってしまうのである。

(ここで言っておきたいのが、私はこの子たちに、ノートにそれぞれの単語の練習を三行ずつ書いてくるという宿題の出し方をしていないということである。課題は何のためにあるかということを分からせるために、最初は勉強の仕方を彼らにまかせてみた。回りくどいようであるが、じっくりやっているのである。)

だから授業を一時間使って、みっちりノートに単語を書かせることにした。「家でやってきなさい」では駄目だ。書くところを見てやらないといけない。最初の段階で、いきなり宿題に出してしまうと、「もう覚えたから書かなくていいと思いました」なんていう子が出てくるのである。(で、テストしてももちろんできない。問い詰めると黙ってうつむいてしまう。家で広告の裏に書きましたなんていう子もでてくる。しかしながら、それを嘆いていても仕方がない。小学生はそんなものだからである。)

授業中に書かせてみると、案の定、書くのを厭う子が出る。すぐにお手本を隠して、たどたどしく書いてみて、「よし書けた」なんて言っている。それはもう覚えちゃったよと私にアピールをしているのである。じっくり書き続けることに耐えられないのだろう。

私が覚えたかどうかは後でいいからとにかく書きなさい、といっても3回くらいそんなことをやっている。これは「逃避衝動」に近い。これをいきなり宿題にしてみても仕方がないことがお分かりいただけるだろうか。最初は粘り強く指導していかなければならない部分である。

ここまで私は小学生の英語の授業を本当にゆっくり進めてきた。こぼれていく子を出さないためである。もう一つの理由はしっかりと地ならしをして一気に飛躍させるためである。

カリキュラムを優先させると地力がつけられない。カリキュラム優先の塾では落ちこぼれが出やすい。小学生に英語を教えるのに、カリキュラム優先はちょっとナンセンスだと私は思う。それゆえのここまでの「ゆっくり進行」であった。

ここからは書く訓練をふんだんに入れていく。そして全員を「書く練習が大好きな子」に仕立て上げて、中学生になってもらおうと思っている。

粘り強い指導と観察力がキモだ。

(2006.9.15)



010 部活動の選び方

中学生ならば勉強だけでなく、「部活動」も頑張って欲しいと思う。

私自身は中学時代、柔道をやっていた。運動がそう得意でもなかった自分が最終的にはレギュラー選手となり、「全国大会」に出場することができた。私が私の「柔道部物語」の中で得た自信は自分自身の大きな宝物となっている。

当時、柔道部の夏休みは二部練習があった。一部が午前9時〜12時、二部が午後2時〜4時半くらいだったと思う。合宿もやっていた。当時独身の顧問の先生の一人暮らしの家に泊まり込んでの合宿だった。むさ苦しいことこの上ないが、スネ毛丸出しの短パン姿で皆で食べた冷えてないスイカがとても美味かった。

冬は寒稽古があった。午前5時32分の国鉄の電車に乗っていった。出かけるときは真っ暗で、学校に着く頃ようやく日が昇るといったくらいである。本当に寒かった。極寒の中、素足でいきなり柔道をやるとケガをするので、寒稽古は寝技から始めるのである。今同じことやったら私はきっと命を縮めるだろう(笑)

そんなに時間を取られても、練習が厳しくても、素晴らしい思い出で埋め尽くされている。当時の監督の先生にはいくら感謝してもしきれない。

さて、このように部活動によい思い出があり、中学生にはぜひやってほしいと思う私であるが、部活動ならば何でもよいと思っているわけではない。よい部を選んで入ってほしいと思っている。

私が「よい部」と思っている基準はたった一つだ。

それは「責任者の先生の力量が高いこと」である。

私は部活に関して、結果至上主義者ではない。だから部活動は強くなければならないとは思っていないが、生徒をあまりに長く拘束して練習させておいて、市中体の万年一回戦負けというのはあんまりだ。先生は張り切っているが弱いのである。そんな部に入っている教え子が結構いた。

長く練習させ、しごくのであれば勝たせてやれよと思ってしまう。塾であれだけ時間を拘束していて成績がまったく上がらなければ、そんな塾は絶対潰れるだろう。そんな部に入っている子は気の毒だと思う。きっと自らの才能がないと思っていることだろう。そんな部はやめておいた方がよいと思う。

また、先生の力量が低いと、部がまとまっていないので、部の中でいじめや派閥が生まれやすい。ひどいときは先生と部員が反目し合っていたりもする。うまくいってない部活動の人間関係は中学生とって恐ろしいほどのストレスとなっている。中学生の成績急降下の原因の主要なものの一つは「部活の人間関係」なのだ。

「部活より塾を優先させるようなヤツは試合には絶対出さない」なんていう先生も力量が低いと言えるだろう。人にはそれぞれ事情があるのだ。確かに塾を言い訳に部活をサボるヤツもいるだろう。

だが親に期待され、難関校に行きたいと本気で思っている子だって、試合には出たいのである。もちろんできる範囲で懸命に練習をやっているのである。そういう子の気持ちも考えないで、そのようなことを言い放つ先生は力量が低いと言っていい。

このように、所属する部が、強くても弱くても、うまくても下手でもいいのだが、まとめている先生の力量が低い部には入らない方がよいというのが私の考えである。

新しく中学生になる子を持つ親御さんは、子どもの部活選びに慎重になってあげてほしい。子どもがやりたい部活をやらせるというのが基本だが、評判の悪い「部」というのはある。

仮入部の期間を設ける学校も多いし、部活動保護者会なんていうのを4月、5月に行う学校も多いのでよくウォッチしてあげてほしい。子どもは興奮しているので冷静ではない場合もある。塾の先生というのは、そのあたり詳しかったりするのでぜひ相談されるとよいと思う。



011 「技術」が無ければ「愛情」すら存在しなくなってしまう

教育の仕事ほど、「顧客」である生徒に対する「愛情」が重視される職業はない。「熱心であること」や「愛情豊かな」ことは、「技術」よりも高く評価され、歓迎されることが多い。

それは教育という営みが「技術」だけではなしえない、よりヒューマンなものであることを誰もがわかっているからだろう。確かに、教育の中で「技術」の占める割合というのはそう高くない。多分10パーセントくらいのことだと思う。ゆめゆめ「技術」オンリーで教育ができるなどと思ってはならない。

ただ、教育を行う者は「技術」に走ることを自戒しなければならないが、「技術」を軽んじてもならない。教育において「技術」は不可欠である。「技術」がなければ、教育が「うまくいかない」リスクは当然高くなる。

親は子どもを愛している。しかし子どもを愛しているからといって、その愛情がうまく伝わるとは限らない。

「愛情」は目に見えない。ゆえに、「愛情」が示されるとき、それは必ず「言葉」や「態度」などの「行為」に変換される。ならば、「愛情」を正しく「変換」できる「技術」がなければ、その人の内側にある「愛情」は正しく伝わらない。その人の愛情は「存在しないも同然」か「変質して存在」するかのどちらかということになる。

「先生はなあ!お前のことを考えて言ってるんだ!」

先生は熱く怒鳴っているが、生徒は怒りのにじんだ顔をで先生を見ている、そういうシーンは日本のあちこちで起こっていることだろう。そういう悲劇も、先生の側に、生徒のことを思う気持ちを上手く伝える「技術」があれば回避できたかも知れない。

「愛情」一つとってみても「技術」がなければうまく伝わらないのであるから、学習指導において「技術」が大切であるのは言うまでもない。

とにかく「技術」にはこだわりたい。ただもちろんそれは生徒への「愛情」を軽んじているのではないのは言うまでもない。



012 結局それは「心」が決めているのだ

熟考することなく、問題を見た瞬間に「あ、これ分からへん」と解くのを「あっさり放棄」してしまうことが、生徒達にはよくある。これを乗り越えさせて、じっくり問題に取り組めるようにするのは膨大な時間がかかる。大体、「熟考する」なんていうのはものすごい能力なのである。

自分の子どもが「分かりやすい授業」と巡り合いさえすれば、きっと勉強ができるようになると思っている親は多いが、実は問題の多くはそれ以前のことなのだ。「分かりやすい授業」よりも、「問題チラ見であっさり放棄」するクセを改善してやる方が間違いなく本人の成績は上がるのである。

「あっさり放棄する」クセは様々な場面で出る。問題集の問題を解くときにも出れば、授業中先生の話を聞いているときにも出る。「あ、こんなん難しい。無理。」「どうせ難しいし。」といった感じで、あらゆることを自ら「遮断」をしてしまう。

「解けない」のでも「分からない」のでもない。本当は「解こうとしない」「分かろうとしない」だけであるのに、それを「解けない」「分からない」と思ってしまっているのである。

この「あっさり放棄する」という大関門を乗り越えさせなければ、いくら教室に缶詰めにして、長時間勉強させようと、大量のプリントを与えようともほとんど成績は上がらない。そしてこのネガティブな意識を変えていくことは教師の仕事の中でも最も難しいことの一つだ。

勉強ができる子というのは、「解けるはずだ」「できなければいけない」あるいは「できて当然」と思っている。時折「できないこと」「解けない問題」があると、それは本人にとって「あってはいけないこと」なので、とても悔しがり、ショックを受け、「分かろう」とし、絶対に「解こう」とする。

「頭がいい」ということよりも、その「思い」こそがアドバンテージなのである。